「愛されたい」という欲求は、決してスパンキーさんだけではなく、すべての人が当たり前に持っている欲求です。
それは何の条件もなく、自分の存在すべてを受け入れられたいという欲求であり、本当の意味でそれを満たす存在は親しかあり得ません。
何もできなくても、生きているだけで価値がある、存在しているだけで価値があるというメッセージ、つまり「無条件の愛情」を親から十分に受け取って育つと、人は精神的に自立します。
つまり、自分は自分であるだけで価値があるのだと、生きるに値するのだと、他の誰でもない自分自身で確信すること。それが健全な自尊心というものであり、別の言葉を使えば確固としたアイデンティティが確立するということなのでしょう。
そしてそれは、子供らしい子供時代を十分に過ごし、親の無条件の愛情を受け取った実感と共に育っていくというのが、一番理想的で健全な姿であるはずなのです。
しかし家庭環境や、その他の経験、トラウマが原因で、その基本的な自尊心、アイデンティティがぐらついてしまうことがあります。
自分で自分の事を、ありのままに認めてあげられなくなってしまうんです。
ありのままの自分の存在価値を、自分自身が信じてあげられなくなってしまうんです。
自分の存在価値が分からない事ほど、不安定なことはありません。
そうするとどうなるか?
他者に認められたいという気持ちが普通以上に、本当に尋常でなく強くなってしまいます。
どんな形でもいいから自分を見てほしい、自分の存在に目を向けてほしい。
そんな思いを抱えた子が、幼少時の体験やメディアなどで見聞きすることでスパンキングに出会い、叱られることや子供のようにお尻を叩かれることに強烈な憧れを抱いてしまう。
そして何の因果か、性的欲求がそこへ向かってぴったりと癒着してしまうと、大人になってもお尻叩きのお仕置きをされたい子、つまり「スパンキー」になる・・・と。
スパンキーの生まれるメカニズムってこういう事なんじゃないのかな、と私は思ったわけです。
これって実は、問題行動の多い子供の心理と、根っこの部分で共通するものがあります。
善悪の区別がつく年頃になっても聞き分けのない子というのは、親の注意を引きたくて仕方ないそうなのです。叱られてもいいから、自分の存在に注意を向けてほしくて、親を困らせるような行動を起こすのだとか。
何か悪い事をして、叱られて、お尻を叩かれるけれど、最後は許され、愛されていることを分からせてもらえる。
それがスパンキングの王道とも言うべきシチュエーションですよね。
もはや小さな子供ではなくなってしまったスパンキーにとって、そういうお仕置きのシチュエーションが結果として性的感覚を呼び起こすものであったとしても、それは決して、性的快感を得る事が主目的なのではなく、ココロの安定を得ること、精神的に満たされる事が何より重要なポイントなのではないかと、私は感じたわけです。
そこで、スパンキーがスパンキングによって満たされる事を求めるスパンキー心の中身について、私自身の経験と主観を軸にしつつ、少し細かく分けて考えてみました。次ページからお話を続けます。
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