4:受動への憧れ、導かれたい欲求


これについては本当に、私自身はつい最近自覚したというか、自覚しなおした欲求でした。
すなわち、受動的な立場に置かれ、自分よりも大人な存在に導いてもらいたいという欲求です。
自律ではなく他律に身を委ねてしまいたい欲求、とも言えます。

生きていることは本当に、毎日が決断の連続で、何事も自分で選び取り、選んだ結果には自分で責任を取っていかなければなりませんよね。
自分の価値観や方向性を現実のものとしていくためには、まず自分の意志が確固としていなくては、道を切り開いていけないんです。

私の場合、「エホバの証人」というカルト宗教からの脱出という、まあ10代半ばのガキにとってはそれなりに壮絶と感じられた経験があった訳ですが、その時に自分を保ったものはたったひとつの自分の意志でした。
逆に言えば、自分の意志が一瞬でも揺らぐ瞬間があれば、そこにはいつでも闇への逆戻りが待っていて、弱みを見せることは自分の未来を捨てることと同義だったんです。

気付いたら何事もすべて自分ひとりで決断を下していく自主・自律的な生き方にすっかり慣れてしまいましたし、大切なことを人任せにしたいわけでは決してないのですが、100%自分の意志で動かしている自分の生活のホンの一部を、自分より強い存在から言われることに従って預けて委ねてしまいたい、という気持ちがどこかに潜んでいたのは否めません。
自ら何かを選び取ることを、一瞬でいいから、やめてしまいたかったのです。(この辺りは、エーリヒ・フロムの「自由からの逃避」から興味深い考察が得られます)

スパンキー的にはきっと、自分よりも大人な存在から「〜しなさい」とか「それはダメ」などと、上から目線でものを言われることや、ある種の強制(ディシプリン)を受けることが非常に心地よく、安心感をもたらしてくれるものなのではないかと思うのですね。

「スパ欲はアイデンティティのぐらつきからやってくる」と書いた事にも関係しますが、一番根底の部分で自分という存在に確定的な自信を持つことができていないので、自分より大人な誰かにあらゆる面で引っ張ってもらうこと、導かれることをいつも希求しているのだと思います。

よく「いい子になりたい」と言われるスパンキーさん、いらっしゃいますよね。
あるいは、自分のこういう部分を直したい、こういう時にお仕置きしてほしい、なんておっしゃるスパンキーさん。

私も、ある部分でそう思っていないことはなかったのですが、実際問題既に私は相当いい子でして(自分で言うなとw)スパンキングが教育の名を借りたプレイになる時、それが価値観の押し付けとほとんど同義となってしまうことは、リアルパートナーを探す際の、私の最大のジレンマでした。

既にできあがった自分の価値観を崩されたくはなかったし、だからこそ私は、私の価値観を理解してそれに沿ったガイドを与えてくれる存在を探してはいたのですが、本当に私が求めていたのは、心の底から尊敬できて、自分がなすべきあらゆる選択をすべて委ねてもかまわないとまで思えるほどの人だったのいうのは、どこかで自覚していたようです。

そう言った意味で「受動への憧れ、導かれたい欲求」とは、ある種、M的な心理と根源を同じくするものと言えなくもないのですが、ディシプリンスパンキングを希求するスパンキーは、やはりそこに「正しさの共有」を求めるのが特殊で、少し厄介で、わがままなところなのかもしれません。

スパンカさん自身のすべてを自分にとっての絶対的正義として完全に盲信するのではなく(これだときっとSMのご主人さまになってしまうような気がします)、スパンキーとスパンカーの間で「正しさの共有」をする、それがつまり「お説教」というヤツではないでしょうか?
そしてそこに「正しさの共有」があって、スパンキーが心からそれを「正しいもの」として受け入れてこそ、「ごめんなさい」という甘い言葉が登場するのですね。

私は今、非常に安易に「正しさ」という言葉を使いましたが、ディシプリンスパンキングの場合、スパンキーの主観において「正しい」という認識が成立すればそれで良いのだと思います。

また、ある程度信頼が築かれてきたパートナー関係の場合、「正しさの共有」はもはや改めて確認するまでもないことだったりして、そうするとたった一言、名前を呼ばれてにらまれるだけでもキュンとスパンキー心に響いたり・・・しませんか?>スパンキーの皆様


受け身でいたい、導かれたい、何かをちょっとだけ強制されたい。
そんなスパンキー心は、プレイと日常の境界線を限りなく曖昧にしたい(つまり本当の「お仕置き」をされたい)と願う気持ちの所以でもあるのではないかと思います。

最後に、スパンキーが常に、恐らくは最大かつ最重要の欲求として満たされることを願っている気持ちについて、次ページでお話していきます。