正直、この欲求はスパンキーがパートナーを求めてリアルスパンキングへ踏み出す際の最大の原動力となるものだと、私は見ています。
自分の存在を見てほしい、そして受け入れてほしい、という欲求です。
スパ欲はアイデンティティのぐらつきからやってくる?のページでは「愛されたい」という言葉からお話を始めましたが、それもすべて根源はココ、「存在を受け入れられたい」欲求から派生するものなのではないでしょうか?
「お尻を叩いてでも教えたいと思われるほど大切に思われたい」
「日常に深くかかわって見守ってくれるようなお仕置きをされたい」
「悪いことをしても見捨てないで叱ってほしい」
「強い愛情ゆえのお仕置きをされたい」
これらも全部そうです。「お願いだから自分の存在を見て受け入れて!」という気持ちから派生する言葉のように、私には感じられます。
ものすごく平たい言葉で「かまってほしい」というのも、そうですね。
すべてはここから始まり、かつここに収束するように思うのです。
私自身のお話をいたしますと、これについては実は相当に・・・追い詰められた思いを抱えていました。ちょうどサイトを立ち上げた当初に、たわごとの下書きとして考えを整理するために走り書きしたものがあるので、それをちょっと引っ張ってみますね。
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私は基本的に他人を全く信用できない。
そして、愛情というものは殊更に信用できない。
一般的な普通の愛情表現は、それはそれは嬉しいものだが、絶対に素直には受け入れられないし信じることもできない。
それは、その愛がいつか離れていってしまうことへの怖さ半分、その愛にしがみついて依存してしまう自分への恐ろしさ半分。
いつか捨てられる恐怖に怯え続ける日々が始まるくらいなら、最初から信じなどしなければいいと思っている。
そんな普通の、大人の人間同士としての対等な関係が怖いものだから、一段立場に差のある関係を求めるらしい。
つまり庇護される立場にある自分と、教え導いてくれる相手という関係。
師弟関係のようなものが一番理想。
本来そこに愛情は必要なく、愛情によって繋がっている関係でもない。
ただ教育の名において繋がっていれば成立する関係。
にもかかわらず、叱る・叱られるという状況に至ったその一瞬というのは、そんなエネルギーを割いてまで、悪い私をスルーせずに注意を向けてもらった一瞬で、もちろん褒められるより何より辛い瞬間でありながら、心のどこかで一番強烈な、愛情の実感を得ることができる瞬間なのだ。
私はスパの中にこそ、一番純粋な愛情のイデアを見出してしまう。
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アイタタタタタ・・・・・。。。
何やら強がった言葉で書いてますが、これって結局は、小さな子供が大人の気を引こうとして、無意識に問題行動を起こす心理が、スレにスレまくって凍りついた状態になっただけではないかと(苦笑)
自分の存在に注意を向けてもらうためには、大人ならば通常、社会的に評価される業績や特技、身近な人間関係においても何か良いこと、人を喜ばせることや楽しませること、幸せな気分にさせることを行うわけですよね。
そしてそれができない時には、それなりの厳しい結果しか返ってこない。もしくは諦められて、存在をスルーされてしまう訳です。
実社会でのそれはそれとして当たり前です。けれどそれに疲れてしまう。
だから私は、スパンキングというファンタジーの世界におぼれてしまったのでしょう。
何か悪い事をしても見捨てられない、スルーされない。
強い愛情があるからこその、お仕置き。
これが私のスパンキングのファンタジーの基本であり、すべてです。
子供のときに得られなかったものを、いつも夢見ていたのです。
私の家庭環境については、あまり湿っぽい話になってもアレですし別館向きの話題になってしまいますので省略しますが、私はやはり、自分のアイデンティティが一番根底の部分でグラグラなのでしょう。
家庭に存在し得なかった愛情のイデアを、いつも心のどこかで追い求めてしまう、そんな不安定さを抱えています。
3年前に比べて色々な経験を積み、人の本当の優しさに触れる経験もし、誰も信じられないだなんて、もはやそこまでスレきったイタいことは考えなくなりました。
大人としての愛情のあり方、愛されるだけでなく、愛することとはどういうことか、よく知っているつもりです。
自分の存在を受け入れられたいのなら、まず相手の存在を全肯定することから始めなくてはならないということも、難しいけれど努力している真っ最中。
そして、自分がスパンキングの中に夢見ていたものが「存在を受け入れられたい欲求」であり、それは決してスパンキングプレイのみで満たされるものではあり得ないということを悟っていたからこそ、危うい綱渡り的状況を生きていながら大きな傷を負うこともなく、何とか自分を保っていられる今があるのだと思っています。
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